新幹線0系の思い出

とうとうこの日がやってきた。

本日は0系が定期列車としての最終運転日である。来月走る臨時「ひかり」をもって、いよいよ新幹線から0系が完全に消えることになる。

今日は残念ながら現地まで赴くことはできなかったので、自分と0系との思い出について書いてみる。

2ヶ月前、親の実家に帰省した際、復路において、わざわざ0系に乗れるように行程を組んだ。ところが、博多駅で待ちかまえていたのは残念ながら100系K編成。予備車無しの3編成フル稼働状態では0系に100%乗れる事は保証されていなかった訳で、諦めるしかなかった。それに100系の余命もわずかであるし、100系自体、13年ぶりに乗った。

そもそも7年前の夏、乗り納め乗車の為、博多まで直行せずに小郡(現在の新山口)で「こだま」に乗り換えた事があった。乗車したのは窓下に白帯の入ったR編成。「ウエストひかり」から転用された車両であったが、結果的にその時が自分にとっての乗り納めとなったのである。


小郡にて


小倉にて

あれから7年。まさかさらに7年も走り続ける事になるとは正直予想していなかった。3世代後の500系ですら「こだま」転用8両化の為、廃車が始まっているというのに。0系で最後まで残った18両は主に1983年に製造された車両が多いが、既に25年も走り続けていたのである。

もう20年以上前の話になってしまうが、0系に乗った時の記憶は今でもほとんど残っていた。

小学生の頃、数年ほど大阪に住んでいたことがあった。話は前後するが、新幹線に初めて乗ったのは大阪に引っ越しする前。親の実家に帰省中、祖父に連れられ、博多から小郡まで片道乗車した。この時の記憶は無い。在来線で帰った復路は覚えているのに。記憶に残る一番古い乗車記録は、大阪に引っ越す際に東京から乗った時。乗車したのはグリーン車であり15形の1000番台だった事ははっきりと覚えている。その列車で初めて食堂車で食べる機会を得た。食べたのはカレーライス。子供には辛すぎた事も覚えているから、よほど辛かったのであろう。しかも、その列車、途中駅に爆弾が仕掛けられていたとの悪戯電話のせいで途中から徐行運転となり、新大阪にはかなり遅れて到着した。新大阪で反対側のホームに止まっていたのは、この時点で既にかなり数を減らしていたビュッフェ車35形であった。まだ小さかったのに、新幹線の形式を把握していたとは我ながらかわいくないガキだ。

閑話休題。大阪在住になった事で九州の親の実家との移動は、飛行機より新幹線を利用するようになった。当時は国鉄末期。分割民営化数日前に100系(X2編成)に初めて乗り、民営化後の帰路も100系(X4編成)で帰った。しかし、その後は0系利用ばかりになる。

1986年の大晦日。家族で帰省した際に乗ったのは臨時のひかり。12両のSorSK編成。乗車したのは大窓車でシルバーの転換クロスシート。転換式の座席に座ったのはおそらくこの時が初めてであろう。肘掛けに収納されたテーブルが壊れていて固定できなかった事を思い出す。復路は確か16両のHorNH編成で2000番台。FRP製の窓枠は飲料水を置くスペースがなかった。

その次は時期不詳だが、急遽帰省する用事ができた時。繁忙期だった為か、またまた臨時の「ひかり」。新大阪で入線してきた車両のモケットは茶系の縞々だった為、簡易リクライニングシートを期待した。ところが乗車してみると初期型転換クロスシートでモケットだけリクライニングシートと同じ柄に張り替えた座席であった。転換クロスシート時代の0系の写真は数多く見かけるが、このタイプの写真は目にしたことがない。なんだか騙された気分になったが、今から思えば貴重な経験だったのかも。この時の復路は大窓車ながらも簡リクに交換された車両。しかも3人がけで新大阪まで後ろ向きに座る羽目に。当時の簡リクシート装備車両は3人掛座席の方向転換ができず、車体中央を境に反対を向いていた。

その後は0系に乗った記憶は7年前の乗り納め乗車になってしまうので、乗車回数は述べ7回という事になる。7回それぞれが異なったタイプの車両であった事は貴重な経験である。欲を言えば、YorYK編成の2&2シートも一度は乗っておけば良かったと思う。

大阪から離れる時や修学旅行の時など、新幹線に乗る機会はちょくちょくあったが、100系利用が続くことになる。100系もX、G、Vには一通り乗る事が出来たのは恵まれていた。X、V両方の食堂車で食べる事もできた。その100系も二階建車両は既に無く、4両と6両に短縮されて細々と「こだま」で走るのみとなった。これとて九州新幹線全通時には消えゆく運命となろう。

0系に乗る機会を得たのはほんの数えるほどであったが、記憶は今でも鮮明に覚えている。現在の新幹線では味わえない0系の特徴は色々挙げられるだろうが、個人的には起動時の驚くほどの滑らかさを推したい。座席に座り発車を待っていると、いつの間にか動き出す。それほど0系の起動時の衝動は小さかった。本当にいつの間にかなのだ。あれほどの滑らかな起動は東北上越新幹線を含め味わったことはない。0系以外の新幹線車両は、いつ動き出したかはっきりとわかる。

あとは、走行時にパンタグラフから出る火花。大阪在住当時、名神高速道を利用して京都まで家族で出かける機会がちょくちょくあったのだが、東海道新幹線と平行・交差して走る箇所があった。そこで高速走行中の0系を目撃する事もあったのだが、パンタグラフから白っぽい火花を出しながら走っていた。現在は交流電化のき電方式がATになり、パンタグラフの数が減少した事もあった火花はほぼ見られなくなったが、当時はBTき電の頃で火花がよく出ていた。火花が出ることですり板も架線もすり減り、良いことは何もないのだが、そんな事は子供は知るよしもなく。火花を出しながら走る0系は子供心に格好良かった。ただし、この件に関してはBTき電が原因の為、0系特有の現象ではない事は付け加えておく。

あれから20年あまり。0系は走り続けた。今はただ、「お疲れ様」と言いたい。44年間、ありがとう。


関連サイト
JRおでかけネット:ありがとう0系新幹線