さようなら大山ドラえもん(2) 26年続いた事は確かだが・・・

前回からだいぶ間隔が空いてしまった。なんとかリニューアルドラえもんがスタートするまでに書いておこうと思ったのだが、諸般の事情により伸びてしまった。ギリギリ間に合った形だ。今回は、大山ドラえもんの26年を振り返ってみることにする。

大山ドラえもんと言っても、26年を同列に語ることはできない。確かに、26年続いた事に変わりはないのだが、大山ドラは、同じ状態で26年間放映されたわけではない。1979年放映作品と2005年放映作品は別物になってるし、1990年放映作品と比較しても、2005年放映作品は別物になっているだろう。もちろん、いったん番組が終了して、別の番組が始まったわけではなく、徐々に変わっていったのであるが。しかし、藤子・F・不二雄氏死去後の変化は、それまでの変化より、特に本編以外の部分においていっそう激しくなったように思える。

ドラえもんの26年は、サザエさんの26年より変化が大きいと思う。1979年頃のサザエさんがどうなっていたかはわからないが、1985年頃のサザエさんと現在のサザエさんの違いは一部キャストが交代した事以外は、内容的にはドラえもんほど違いは大きくあるまい。

アニメドラを卒業した段階で、大山のぶ代ドラえもんの時が止まっている人も多いと思う。そこで、大山ドラを大まかに5つの時期に分けて振り返ってみることにした。この分け方は独自に定義したもので、もっと分けられるとか、分ける時期が違う等、異論を唱える方もいるだろうが、ご容赦いただきたい。

1.帯番組時代 1979.4〜1981.9

平日に毎日10分ずつ新作、日曜朝に再放送という放映形態だった。レンタルビデオやDVD等でソフト化されている話も多い。放映の10分枠が原作漫画の短編をアニメ化するには間延びしない程度の適度な時間となったためか、内容的には原作のセリフをそのままアニメ化した作品が多い。ただ、作画については首をかしげざるを得ない。最初期の作画はすさまじいの一言。デッサンが崩れていたり、ドラえもんの足が長かったり、全体的に等身がおかしかったり。現在放映されているアニメで作画崩壊が起きると、アニヲタの間で大騒ぎになるが、毎日がヤシガニ作画状態だった。徐々に安定していったが、DVDで見返す限り、安定するまでには相当時間がかかったようである。

2.30分番組時代I 1981.10〜1986

放映枠が週一回30分となった。1981年は新作2本という放映形態であったが、1982年に入ると、新作1本に帯番組時代の再放送2本という形態になり、1984年5月まで続いた。1984年5月以降は、新作1本に再放送1本になった。この後、短期的に新作2本になることもあったが、新作と再放送が1本ずつという放映形態は2005年3月まで続くことになる。
この時期の作品も、多数ソフト化されており、レンタルビデオ店で見ることができる
大山ドラのレベルが一番高かったのはこの時代であろうか。もとひら了原恵一、といったスタッフが演出した作品は、アニメオリジナル部分と原作がうまく融合したレベルの高い作品が多い。

3. 30分番組時代II 1986〜1996.9

1986年前後からドラえもんの顔の作画に変化が現れる。それまで髭は青い部分まで伸びていたのが、生える位置が内側に後退となり、白い部分に収まるようになった。そして、「フフフフフ」という笑い声が出始めたのもこの頃だったように思える。大山のぶ代の声も徐々に低くなり始めた。
また、次々と増加する藤子アニメに伴い、初期からのスタッフが抜けていった。原恵一も1987年4月以降はエスパー魔美に移動している。優秀なスタッフが抜けたことにより、アニメのレベルも徐々にダウンしていった。今となっては、この時点でも、まだ一定のクオリティを保っているのだが。
1987年、藤子不二雄はコンビを解消。もっとも、コンビ解消以前からドラえもんを描いていたのは藤子・F・不二雄藤本弘)であって藤子不二雄A(安孫子元雄)はノータッチであったため、アニメの内容的には目立つほどの変化はなかった。それでも、OPの「原作 藤子不二雄」が「原作 藤子不二雄(F)」に変わったのは、子供心にもインパクトがあった。
この頃には既に長寿番組としての風格を現してきており、1984年に行われたグリーンドラキャンペーンに代表されるように、環境保護といったメッセージ性を前面に出し始めた。
1988年に入ると、ドラえもん型熱気球ドラバルくんが全国の空を飛んだ。1992年3月、21エモンが終了。テレビ朝日系で放映される藤子アニメの新作はドラえもんだけとなった。テレビ朝日においては金曜夕方17時からパーマンの再放送が行われていたが、1992年のうちに再放送も終了した。1990年代に入ると、原作のないテレビオリジナル作品も徐々に増えていった。

4. 30分番組時代III 1996.9〜2002.9

1996年9月、藤子・F・不二雄は62年の生涯を閉じた。追悼で映画「日本誕生」が放映された他、3月公開の映画「銀河超特急」がテレビ放映された際に、提供クレジットの最後で追悼メッセージが流れた。1997年3月、映画「ねじ巻き都市冒険記」公開。藤子F氏は自分の死期が近いことを悟っていたのか、シナリオ自体は亡くなる前にメモ書きとして残していた。そのため、映画の公開をなんとか実現できた。この時点では、映画はもう今回で最後と思ったものである。
1997年9月、一周忌特番として、パーマンエスパー魔美オバケのQ太郎チンプイとの合同スペシャルが放映されたが、番組の出来は正直誉められたものではなかった。
1998年3月、映画「南海大冒険」公開。この年以降、映画はスタッフの合同作業でストーリーが作られることになる。そして、主題歌やキャストに芸能人の起用も始まった。
短編においても、テレビオリジナル作品はますます増え、レベルの低下も一層激しくなる。渡辺歩による独特のグンニャリ作画が出始めたのもこの頃である。特番のタイトルも異様に長くなり、特番で本編の合間に挿入されるアニメパートのレベルも下がっていった。また、特番で放映された再放送の中には、本来CMが入らない場所で強引にCMが入れられてしまうなど目を疑うような行為も見られた。
この頃から、大山ドラは方向性を見失い始めたように思える。そして・・・。

5. 30分番組時代IV 2002.10〜2005.3

2002年10月。ドラえもんファンはもとより、一般人にも衝撃が走った。オープニングの歌手は1992年以来山野さと子のままだったが、東京プリンに変更になった。東京プリンの歌うOPは早くも半年で変更となったが、これは苦情が殺到したからではなく、当初から半年の予定だったようである。もっとも、好評であれば、延長になっていた可能性もある事を考えると、やはり不評だったようだ。後任の歌手は誰になるかと思いきや、渡辺美里になる。ちなみに、映画のOPは、最後まで山野さと子のままであった。以後、2005年3月まで、短期間の間にOPとEDが変更になる。採用される歌は、タイアップの割には中途半端な人選ばかり。振り返ると、今ひとつパッとしなかった曲ばかりのような気がする。歌をやっと覚えた頃には変更になっていた事も否定できない。そして、大山ドラえもんの最後を飾ったOPはAJIというアカペラグループ、EDは、ダブルユーであった。迷走を重ねた晩年の大山ドラえもんを象徴している気がする。
アニメ本編については一層レベル低下が激しくなる。中には、ドラえもんの漫画を全く読んだことのない人が、今までの設定を無視して脚本を書いた事もあった。再放送も近年の作品が増えたため、新作、再放送、共にアニメオリジナル話となる事もあった。
2004年7月、2005年春の映画公開が見送りになることが発表される。10月、アニメ誌に掲載されていた放映予定表が全てキャンセルされ、映画「銀河超特急」を4週に分けて放映されるという異例の事態になる。そして、11月下旬、来春からリニューアルされることが正式に発表され、同時に、ほとんどのスタッフ、キャストが降板になることが明らかになった。
そして、2005年3月、大山のぶ代ドラえもんは、1979年4月の放映以来、26年近くにわたる歴史に幕を閉じた。


以上、駆け足のつもりで書いてみたら、結構膨大な量になってしまった。それでも、ここに書いたのはほんの一部である。26年という時間がいかに長いかを肌で感じてしまった。一口に大山ドラと言っても、時期によってかなり違うので、26年全てを同一視することはできない。やはり、大山ドラのターニングポイントは藤子F氏が亡くなった1996年9月であったと思う。原作者という大きな柱を失ったアニメは方向性を失い、2002年秋からのOP・EDの頻繁な変更に代表される迷走路線が、とどめを刺す形になってしまった。

26年間お疲れ様と思うのは当然の事なのだが、一方では、ようやく終わったという安堵感も強く、まだまだ続けてくれという感情は沸かなかったのが正直な気持ちである。

いよいよ今晩から水田わさびのリニューアルドラえもんがスタートするが、非常に楽しみにしている。その辺の理由などを、次の機会に書いておこうと思う。


関連エントリ
さようなら大山ドラえもん(1)

参考サイト
ドラちゃんのおへや テレビアニメについて