わさドラへの期待

リニューアルドラえもんが始まって、早2週間が過ぎた。ここ2、3年は盛り上がっていなかったファンサイトの掲示板も、久しぶりににぎわいを見せている。自分も、同じく、近年は読む事に徹して、あまり書き込んでいなかったのだが、ここしばらくは書き込みを頻繁に行った。

掲示板等で書いた事とかぶることもあるが、なぜ、自分が水田わさびドラえもんを支持するのか。その辺について書いていこうと思う。

1.末期大山ドラの残したもの

藤子・F・不二雄が亡くなって早8年が過ぎたが、ドラえもん自体の人気が衰えているわけではない。逆に、ますます人気は上がってるように見える。ただし、ドラえもん人気は持続しているとはいえ、ファン層は大きく様変わりした。それには、大山ドラの変化だけではなく、それ以外の複雑な要因がかかわってくる。

大山ドラで育った層が大人になる以前は、ドラえもんは本当に子供のものだった。大人になってからもドラえもん並びに藤子ファンを続ける者は昔からいたが、藤子漫画の持つ魅力に惹かれてのものだった。日テレ版ドラえもんで育った層が大人になる時期は早かったが、あまり人気が出ずに終了したとあって、それほど影響力はなかったと考えられる。しかし、大山ドラで育った層が大人になるにつれて、変化が出てきた。大人になる層がちょうど増えた頃に、藤子・F・不二雄が亡くなった。藤子・F・不二雄はキャラクターグッズの展開に積極的ではなかったため、子供向けの物を除いては、生存中は、ある程度制御されていた。それが、亡くなった途端、待っていたかのように、あふれんばかりのドラグッズが次から次へと発売された。小学館からは、ドラえもんグッズを特集した「ドラえ本」なる本が3冊発行された。

アニメの方はどうだったか。亡くなった直後に、アニメも打ち切りになるとの報道が一部でなされた。だが、結果的に、アニメは続行することになった。原作のストックも少なくなっていたが、以前出てきた道具を機能をあまり変えずに名前を変えたりして、ストーリーはオリジナルで作られていった。しかし、ドラえもんという作品は、一見、単純に見えて結構考えられていたため、スタッフが毎週新しい作品を産み出していくのは並大抵の事ではなかった。特に最後の数年間における質の低下は目も当てられないものがあった。道具名は適当、ストーリーも適当。内容の薄さをごまかすため、キャラクターが変な表情や動きをすることによって笑わせようとする演出も目に付くようになった。動きで笑わせる演出は、子供心には面白いのかもしれない。でも、あれを見た子供にとって、ドラえもんはどういうアニメとして映るのだろうか。動きがおかしいアニメとしか映らなくなる恐れがある。

ここ数年、リニューアルが発表される以前は、ドラえもんファンサイトの掲示板では、金曜日に放送が終わった後で、その日の内容を語り合う光景が見られなくなっていた。なぜだろう。語る内容がないというのも挙げられる。

ドラえもんは何もしなくても安定した視聴率を取っていた作品だから、スタッフの中にもちょっと手を抜いて作っても大丈夫のような意識があったのではないか。子供向けだからこの程度でいいだろうと思うようなスタッフの甘えを感じていた。ドラえもんの原作漫画を読んだことがなさそうな人が書いているとしか思えない回もあった。

結果として生じたのは、ドラえもんの視聴者の低年齢化である。そして、子供達の間で、ドラえもんを見ることはダサいことになっていった。小学校中学年になってくると、ドラえもんは幼稚でダサいという認識が出来てしまった。

1990年代にはいると、映画を見に行っても、小学生は見あたらない。いるのは、幼児とその親、それに、昔からドラえもんファンを続けているような少数のいい年した大人達。1980年代はそんなことはなかった。映画館に小学校中学年くらいの小学生は多数いた。

自分は、1999年以来、6年にわたり、藤子・ドラえもんファンサイトにおける小中学生の書き込みを見てきたが、ドラえもんファンであることを公言してしまうと馬鹿にされるので隠しているといった書き込みも見られた。

原作者が公言しているように、ドラえもんの原作は生活ギャグマンガであるにも関わらず、無理矢理教育漫画に仕立て上げるもんだから、教育漫画としては穴だらけになるのは当然のことでもあった。中途半端に説教臭くなり、そして、某漫画家とか作家がドラえもん批判をする。彼らの批判的意見を読んでみると、おおよそ、アニメのドラえもんのみ見て判断したような書き方だった。

ドラえもんのキャラクターグッズは売れるが、キャラクターグッズを買う層の多くは、原作漫画には目も向けなかった。原作漫画を読む層の高齢化は進んだ。

一般人がドラえもんとして挙げるのは、藤子・F・不二雄が描いたドラえもんという漫画作品ではなく、大山のぶ代声のドラえもんというキャラクターになっていた。気がつくと、ドラえもんはキャラクターアニメになっていた。ストーリーは二の次で、ポケットから取り出す道具が印象に残らなくなっていた。

たいていの人は原作とアニメが違うなんて思っていない。というか、そこまで深く考えない。結果的に、アニメ=ドラえもんの全てと思っている人が多くなる。それでも、世間的にはたいした問題ではないのかもしれないが、藤子ファン的には非常に心苦しかった。また、ドラえもんファンは増えても、藤子ファンは徐々に高齢化が進み減少していく恐れも現実化していた。

これ以上作品が汚されない究極の手段は、これ以上作らないことである。つまり、打ち切ってしまうこと。しかし、現実には、大変困難だろう。原作者が亡くなった時に打ち切ることも検討されたらしいが、結局は、続くことになった。ドラえもんはあまりにも大きくなりすぎた。それに、打ち切ってしまうと、絶対に衰退する。多くの困難を経て復刊された藤子不二雄Aランドが一般層にどれだけ知られていることか。

地上波でテレビアニメが毎週放送されていることは重要なのだ。

放映を続けざるを得ない状況で、どのような方向性で放映すべきか。その最善の答えに近いものをリニューアルドラえもんに関わるスタッフは打ち出してくれた。


2.リニューアルドラえもんが目指すもの

シリーズ監督の善聡一郎氏は、ぼくドラえもん23号において、次のように答えている。

「新シリーズのコンセプトとしては、原作のおもしろいところを、どんどんやっていこうということです。25年やってる間に、ちょっとのび太の保護者みたいになってきたドラえもんにも、本来のだめロボットに立ち返ってもらって、もうちょっとフレンドリーな感じを持たせたいですね。ぼくとしては、原作の「ドラえもんだらけ」や「合体ノリ」みたいなナンセンスとかスラップスティックな作品が大好きなので、ああいったドタバタをふやしたい。また、自分が子どものころ、藤子・F・不二雄先生の『モジャ公』を読んで、初めてSFに触れたショック。そういったものを『ドラえもん』を通じて、子どもたちに伝えていけたらうれしいなと思っています。」

これだけで、スタッフはこれから何をやろうとしているかがわかると思う。大山ドラ末期の迷走があったからこそ、新ドラの方向性はますます明確なものになった。もし、このまま原作と異なるアニメを放映し続けたらどうなるのだろうか。

原作寄りになったドラえもんは、いわゆる、健全、教育路線とは一歩引いた形になるし、今までのドラえもんに慣れきった一般層から相当な反発が出る形になるが、それを覚悟してまで、藤子・F・不二雄が描いたドラえもんの面白さをアニメを通して子供達にわかってもらいたいと思ったから、あの路線を選択したと解釈している。原点回帰を目指したスタッフの狙いをわかってほしいものだ。

先日発売された「もっと!ドラえもん」No.1では、リニューアルドラえもん特集が組まれていて、スタッフのインタビューも掲載されているので、興味を持たれた方は手にとって確かめていただきたい。


3.アニメ・ドラえもんの役目
原作付き作品がアニメ化される際に論争になるのが、「原作に忠実なアニメ化を」と「原作とアニメは別物である」の相反する二つの考えである。これってどういうことだろう。絶対的な答えはない。原作の形態及びアニメがどのような形で放映されるかによって変わってくるので、ケースバイケースである。自分も藤子不二雄以外の作品では後者の主張をする場合もある。自分は、ドラえもんのアニメは原作通りやるべきだと言うことを以前から主張している。大人向けに描かれたクレヨンしんちゃんや、原作漫画はマニアよりになっているケロロ軍曹を、アニメ化する際に子供向けにアレンジするのとは違う。藤子・F・不二雄は子供のために描いた以上、大きく変える必要はない。

ところで、原作準拠でのアニメ化とはいうが、何も、一字一句違わずアニメ化せよと言ってるのではない。漫画とアニメでは間の取り方が異なるので、何らかのアレンジが必要になるのは避けられない。そのアレンジがうまくなされるかが重要になってくる。また、アニメ化する際に展開を変えるにしても、変えても差し障りのない部分と、変えてはいけない部分がある。大山ドラえもんの末期は、変えてはいけない部分まで変えていた事が非常に多かった。

インターネット上において、原作派と称されるの多くは、世代的にアニメから入った人が多いと思う。かつての大山ドラえもんを見て面白いと思って漫画を買っていた。入口としての役目を果たしていた。子供が限られたお小遣いの中から、あえて原作漫画を買うきっかけって何であろうか。個人的な体験では、アニメを見て興味を持ち、漫画を買っていた。リニューアル支持者には昔の大山ドラえもんであれば支持している人は多いと思う。原作の良いところを活かしつつ、アニメ独自の面白さを付け加えて仕上げていた時代もあった。

藤子・F・不二雄の原作漫画は言うまでもなく子供向けに書かれたものである。子供が読んでこそ、価値のあるものだ。

原作漫画の面白さを知ってしまった人間にとって、一人でも多くの子供達に、この面白さを知ってほしいと思う。極端に言ってしまえば、原作漫画を読まなくても、アニメを見るだけで、原作の持つ面白さが味わえればいい。もちろん、一人でも多くの子供が原作漫画に手を触れてくれて、そこから、他の藤子作品にも手を出していくのがいいのだが。

アニメのドラえもんは、藤子作品の入口として機能してほしい。個人的に、ドラえもんというキャラクターが好きであるわけではない。ドラえもんという作品が好きなのである。


以上が、わさドラに期待する主な理由である。放映はスタートしたが、まだ課題は山積みである。現時点におけるわさドラの不満点、そして、掲示板で交わされたやりとりも含めて、いずれ、今後の課題も述べたいと思う。



関連リンク
コラム「増長するキャラクター性、失われる作品性」(シンドリャーのブログ)